正論だけでは務まらない~相談者のウソにどう向き合っていくべきか

正論だけでは務まらない~相談者のウソにどう向き合っていくべきか

正しいウソのつき方を学べずオトナになった少年の話

「怒らないから正直に言いなさい!」

怒らないと誘い水をかける母の一言が政治家の公約の如く反故にされるコトは、正直に告白した次の瞬間、怒声と容赦ない平手打ちによって証明されるワケであります。

「怒らない」と言っておきながら、正直に告白しても叱られる。ウソをついてもやっぱり叱られる。のび太くんのママはカミナリを落としてはコンコンと説教するだけですが、さらに躾という名の暴力が追加されるワケであります。

小学校の道徳の授業で、リンカーンの桜の木を切ったあの有名なエピソードを読まされた時など「そんなのウソだ! オレの母ちゃんなんか…」と内心で毒ついたものです。ちっとも笑えないアメリカンジョークだと。

結局、「正直に告白したのだから、次はやらないように反省しなさい」と静かに諭されるコトがただの一度もなかったのは、このアタマの足りない少年が悪さをしすぎたせいなのでしょう。

とはいえ、やはり納得がいかない少年は、それから数十年も経って中年になってから、すっかり年老いた母に向かって当時の恨み言を蒸し返しては親子ゲンカを繰り返すという見苦しい姿を晒すワケであります。

前置きが長くなりましたが、相談者がウソをつくコトは決して珍しくありません。障害者が純粋無垢な聖人君子であると決めつける必要はありませんし、ウソをつくというコトは、ヒトとして自然な言動のひとつだと思っています。

 

では、なぜヒトはウソをつくのか

もちろん僕も例外ではありませんが、ヒトは誰もがウソをつきます。そこに障害者も健常者もありません。なぜなら、ヒトはウソをつかずには生きていけないからであります。

僕は、人生において3つのウソがあると定義しています。「ついても赦されるウソ(むしろ積極的につくべきウソ)」「つくのは赦されないウソ(特に卑劣な類のもの)」「つかねばならないウソ(本当のコトを言ってはいけない)」です。

「つくのは赦されないウソ」は厳しく自分を戒める必要がありますが、「ついても赦されるウソ」と「つかねばならないウソ」をうまく扱えるよう、そのワザを身につける必要があるのです。

「積極的にウソをつけと推奨するのか」と疑問に思う方もいると思いますが、世間一般では「ついても赦されるウソ」のコトを「社交辞令」といい、「つかねばならないウソ」を「思いやり」と呼称しています。

ヒトを傷つけないためのウソは、うまくつく必要があります。仮に外見に劣等感を持っている(と思われる)相手を目の前にして、その外見について思ったコトをそのまま言葉に出してしまったとしたら、一体どういうコトになるでしょうか?

当然ですが、「正直なヒトだね」と好意的に受け取られるハズはありません。「無神経」「非常識」「あり得ない」など、とにかく最低な評価を下されるコトでしょう。本人の怨みを買うだけでなく、周りからも冷ややかな目で見られます。

こういった場合、相手を不愉快にさせないセリフに転換できるのが最良で、あるいはココロにもないセリフで相手をムッとさせるくらいなら黙ってやり過ごすのが「正しいウソのつき方」です。

 

オトナになるためには、「正しいウソのつき方」を学ばねばならない

真実でないコトをあえて口にするワケですから、厳密にいえばウソつきです。ところが、こうしたウソはナゼか容認される。こうしたウソをソツなく返せなければ、社会人として失格の烙印を押され、ヘタをすれば排除されてしまうのです。

冒頭で紹介したとおり、僕はたとえ正直に告白しようが説教を喰らい、ウソをついたらダメだの一点張りで育ってきました。ところが、思ったコトを正直に言ったら「オマエには常識がないのか!」と叱られる。

フツウは教えられなくても自然に身につけるものですが、僕はそれができず、「ウソをつくなって怒られるから正直に思ったコトを言った。なのに怒られた」と、ずいぶんトンチンカンな成長を遂げたのでした。

くどいかも知れませんが重要なコトなので、ここまでの話を総括しますが、ヒトを傷つけたり、哀しませたり、裏切ったり陥れたりする卑劣なウソは悪いウソです。しかしながら、正しいウソは赦されるものであります。むしろ、必要に応じてつかねばならない。

このように、ヒトはみな「正しいウソ」のつき方を学ぶ必要があります。ヒトを癒したり、楽しませたり、あるいはヒトを傷つけたり哀しませないためのウソは、オトナのたしなみとして身につけなければなりません。

 

障害者と健常者~ウソの違いと共通項とは

さて、これまで綴ってきたのは常識もいいところの一般論ですが、障害福祉分野で相談支援の仕事をしている限り、必ずといって良いほど悩まされ、振り回されるのが相談者のウソであります。

これは障害種別を問わない話でありまして、世間一般では純粋無垢な聖人君子のような先入観を持たれがちな知的障害者も例外ではありません。こうした先入観こそ偏見そのものですが。

当ブログで以前、ハード&ディープな相談事例シリーズでご紹介したガー子さんポン子さんもまた、僕が担当していた当時、僕や他の支援者たちに数々のウソをついてきました。

彼ら彼女らにとっての唯一の味方ともいえるべき存在である担当相談者として、本人のセリフを信じる立場を貫いてはいましたが、真偽の判断に迷うコトもあれば、明らかにウソだと判った上で話を合わせるコトも多々ありました。

相談支援を遂行していく中で非常に難しいのが、相手のウソにどう寄り添っていくかという点であります。冒頭で触れた僕の母のように、ウソつきは即断罪といったアプローチでは信頼関係を崩壊させるだけで何も生み出しません。

相談支援において重要なのは、なぜウソをついたのか、その理由を突き詰めていくコトであります。障害者ケアマネ独自の視点と支援者の所見を織り交ぜながら、客観的に推論していく必要があるのです。

では、ヒトはどういった場合にウソをつくのか。ウソをついているかどうかを判断する上で、なぜ相談者は支援者に対してウソをついたのか、その理由や原因を探っていく必要があります。

①自己保身のため

自分に置き換えて考えてみれば解説不要でしょう。恐らく、ヒトがウソをつく最大の理由であり動機であります。正直なコトを告白してしまうと自分にとって困った状況に追い込まれる。老若男女の区別なく、自己保身に迫られてウソをつくのです。

相談支援において着目しなければならないのは、相談者における「自分にとって困った状況」が何なのかを正確に把握するコトであります。特に意思疎通が困難な知的障害者の相談支援の場合においては。

半独立型社会福祉士になってから新規相談者となったコロンさん(もちろん仮名)は知的障害と下肢障害がある50代の男性ですが、コロンさんも周りの支援者に対してウソをつくコトが多いです。

といっても、誰かを貶めたり傷つけたりするものではなく悪質なウソではありません。確実に自分だけではできないハズのコトを「できます」「やってます」という。支援者が心配して確認しても答えは同じ。

最近、ある日の夕方で宵闇に差しかかった頃合い、モニタリング訪問のためにコロンさん宅へ向かう途中、自宅付近で見慣れた影がスローモーションで真横に転倒する場面に遭遇。他でもないコロンさんでした。

コロンさんは下肢障害に加えて目の病気も併発しており、冬期間の雪面がほとんど平面にしか見えていないようで、除雪が不充分な歩道の傾斜や凸凹を識別できないのです。

市街中心部の単身者専用マンションで暮らすコロンさん宅へ行く場合は最寄りの有料駐車場を探すのですが、その途中でコンビニへ向かうコロンさんと偶然、遭遇したのです。

幸い、柔らかい雪上だったのでケガをした様子はありませんでした(むしろ、アイスバーン状態になっている車道で転んだ方が一大事)。このまま放置しておけず、路肩にクルマを留めてコロンさんを助け起こし、一緒に帰宅したのでした。

この件を家事援助で訪問しているヘルパーステーションに報告したのですが、後日、担当のサービス提供責任者から「本人は転んでないと言っています」との報告。

他でもない、この僕が視認しているのですから、コロンさんは明らかにウソをついています。ではなぜこのようなウソをつくのか? 疑問に思ってコロンさんが通所している福祉就労所のサービス管理責任者に問い合わせました。

その責任者いわく「たぶん、施設に入れられると思ってウソをついたんだと思います」との推論でした。コロンさんの母が頑強に施設入所を勧めていたそうです。

この件があったので、もし転倒した件がバレたら「だから言わんこっちゃない」と施設入所させられたらどうしようと思ってウソをついているのではないかとの話でした。

コロンさんは自由気ままな独り暮らしの継続を望んでいますし、僕ら支援者もそれを反対するつもりはありません。とはいえ、安心して独居生活を続けるためには福祉的な支援が必要不可欠であります。

この場合、ウソを断罪するのではなく、ウソをつかなくても済むという安心を提供するコトが、僕らコロンさんの支援者チームが果たすべき役割なのです。

②事実を誤認しているため

知的障害の特性上、客観的視点による情報処理が追いつかず、事実を事実でないカタチで自己認識している可能性があります。

実際にあったポン子さんの事例として、「本人が、福祉就労所から帰ってくるのは16時頃になると聞いていたが、もう30分以上過ぎても戻ってこない」とグループホームから本人の安否を心配する連絡を受けたコトがありました。

そこで、件の福祉就労所に連絡したところ、「16時頃というのは出発する時間です」との返答が。逆算すると、到着時間が自己申告よりも40分以上遅いという誤解が発覚。ところが、後日に本人にその件を確認し直しても要領を得ない返事しか返ってきません。

「だって、16時に帰るって言われたから…」というポン子さんにウソをついている自覚はありませんし、中度の知的障害があるポン子さんの事実誤認を「話が違う!」などと責めるのは本末転倒です。

こうしたケースの場合、情報の伝達や確認を本人任せにするのではなく、担当ケアマネが中心に情報共有を行っておくコトによって、特定の支援者だけが負担を負ったり無用な心配をしたりしないための配慮が必要になります。

③記憶が混乱あるいは欠如しているため

これはガー子さんのケースですが、以前に通所していた福祉就労所で「アタシのお金がない!」「バッグ盗られた!」などと喚き立てるコトが立て続けに起こり、スタッフから「認知症でも発症したのではないか?」と訴えがありました。

度重なるトラブルを解決するための支援者会議を緊急招集して話し合った結果、当時50代半ばだったガー子さんは認知症の前駆症状によってこうした物忘れを起こしているのではないかと推論。ガー子さんが通う精神科病院に連絡し、担当の精神科ソーシャルワーカーに所見を求めました。

ちなみに、ここでいうところのトラブルとは、ガー子さんが訴えたように、本当にお札がサイフから抜かれたとか、ハンドバッグが誰かに盗られたといった警察沙汰のトラブルではありません。

実際には、自分でお金を使ったのを忘れて「札を抜かれた!」と大騒ぎしたり(スタッフが高額なお茶を買っている場面を目撃)、タバコを吸いに喫煙所へ行った際にハンドバッグを置き忘れただけといった人騒がせなものでした。

後日、ソーシャルワーカーから返答がありました。この騒動の結論は、「知的障害があり情報処理能力が低い上に、当時頻発していた対人トラブルなどの精神的ストレスがかかり、さらに脳内での情報処理が追いつかず記憶が一時的に欠落したもの」というものでした。

主治医いわく、当時のガー子さんは、気に入らない利用者やスタッフとの人間関係のストレスが重なり、いわゆるパニック状態に陥っていたので、冷静な思考論理ができなくなっていたのであろうというものでした。

主治医からの見立てが明らかになったとはいえ、それで事態が収拾するワケではありませんでした。ある日、ガー子さんから「(福祉就労所の支援者から)ウソつきの支援はできないって言われた!」と、泣きわめきながらの電話。事業所を変える以外に解決方法がなくなったのです。

ガー子さんの相談支援を継続しているうちに、主治医の見立てが正しかったコトが証明されました。上記の大騒動の結果、数ヶ所の見学を経て本人が気に入った福祉就労所に変更したのですが、その後はトラブルを一切起こさなくなったのです。

ガー子さんのケースは知的障害による情報処理能力の低さに起因するものですが、知的障害の他に記憶が欠落する要因として、精神疾患による認知機能の低下や精神科の服薬による副作用が挙げられます。

いずれにせよ、本人にとってはウソをついている認識はありませんし、短期記憶が保持できていないのでウソかホントか本人ですら判らなくなっている状況もあります。

ウソ話が出てきたと思われた際は、自己保身の理由以外の原因が考えられます。以上のような混乱や短期記憶の欠如の可能性についても検討する必要があるのです。

 

ウソだと判った上で、そのウソに寄り添っていく

障害者がウソをついてはいけないとか、健常者はウソをついてもいいとか、それこそ同じ知・情・意を備えた人間であるという原則を捻じ曲げる誤った認識であります。

障害者の手帳を持っているかどうかの違いがあるだけで、同じ人間なのです。感情を持った人間であるコトに何の変わりもありません。

ただし、相談者が成育歴に課題を抱えていたり(本人に責任はありません)、障害特性によって合理的配慮を必要としたり、さまざまな事情があります。

障害者ケアマネは専門的視点に基づいたアプローチが不可欠となります。

「ウソつきはドロボウの始まり」と断罪するのではなく、なぜ相談者がウソをつくのか、その理由について徹底的に考察し、情報収集し、推論を重ねた上で、本人へのアプローチによって推論をもとに実践しながら本人を知っていく。

こうしたプロセスを経ていく上で重要なのは、相談者のウソに寄り添うという姿勢だと思っています。とても矛盾しているように思われるかもしれませんが、相談者のウソを判った上で、相談者にとっての良き理解者を目指していくのです。