「胡散臭いオトコたち」の厄災を回避するために

「胡散臭いオトコたち」の厄災を回避するために

今回のテーマは「オトコの人相」についてです。自他ともに認める確信犯的な偽善者の僕が語っていいテーマではありませんが、オトコの人相というものは、その生き方にシンクロするかのように変貌を遂げるものであります。

先入観でヒトを判断してはいけないと、学校の教師から厳かに言い渡されたセリフが1つの真実であるコトに異論はありませんが、親や教師からの庇護を離れて数十年もオトコを続けておりますと、のちに自分の先入観こそが正しかったという場面にも遭遇します。

ここでいう「自分の先入観」とは、のちに正しい行いをしているとはいえない事実が判明する胡散臭いオトコと初めて出会った際に抱く本能的な違和感と警戒心であります。

僕が20年以上にわたって籍を置いている福祉業界においても、もちろん口にはしないものの、ごくまれに「なんだ、この胡散臭さは?」と思わざるを得ない警戒すべき人物との邂逅があります。

仮に何ひとつ事前情報がなかったとしても、初対面でそのオトコを見た瞬間、危機回避のため防衛本能が瞬時に反応し、脳内で警戒警報が鳴りまくる感覚といえばイメージがつくでしょうか。

女性の人相はよく判らないので今回のテーマから外しますが(上っ面しか見切れない人間なので)、僕と同族であるオトコの人相であれば多少は語れます。

相手のオトコが世間体のためにひた隠しにしている本性を見抜けないコトもありますが、それでも名状しがたい違和感というものを本能で感じるコトはできるようになりました。

あいにく生まれつき勘が鋭いワケではなく(むしろ愚劣な部類に属します)、後天的に身につけた観察眼であり、それなりの経験と犠牲を支払った上で習得した処世術ですが。

 

オトコの人相の好悪、そのすべては「目」に現れる

世の東西を問わず、オトコの(容貌の美醜ではなく)人相という点に着眼した格言を残した偉人がいます。誰もが一度は聴いたコトがあると思われるものに「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て(リンカーン)」と「男の顔は履歴書(大家壮一)」があります。

いずれも意味するところは同じ、矜持をもって正しい生き方を貫くヒトは美形でなくとも絵になる人相になりますし、まっとうでない生き方でわが道をヒトは、たとえ眉目秀麗であっても胡散臭い人相になります。

日頃から他人を怒鳴りつけたり暴言を吐き続けるヒトの人相や、平然と他人を利用したり蹴落としたりするエゴイストの人相の人相には、必ずと言ってもイイほど陰鬱な胡散臭さがつきまとうものであります。

僕の社会人生活の中でも、そうした胡散臭さを身にまとわせた警戒すべき存在と出会う機会がありました。もちろん深入りは禁物、業務上やむを得ない事情があった場合のみ、否応なしで関わった程度ですが、早々に関係を切るコトに腐心したものでした。

ヒトの話の腰を折るように怒鳴り声を上げて恫喝を続ける輩もいましたし、自身の不適切な所業を棚に上げてネチネチと粘着してくる輩もいました。弱い立場にあるヒトを口八丁で誑し込み、司法の手をスルリと逃れて道義的に赦されない振る舞いをする輩もいました。

これらのヒトたちに共通するのは上記で何度も綴ってきた「胡散臭さ」なのですが、口髭を立てて色眼鏡をかけ、金のアクセサリーをちらつかせた「その筋のヒト」的なファッションで身を固めたヒトがフシギと多かったのですが、その生き方と身なりは一致するようです。

しかしながら、コスプレ的に「愛すべき悪党ヅラ」がそのようなファッションに身を固めたとしても、かつて邂逅した胡散臭いヒトたちが放つ負のオーラを感じさせるコトはないでしょう。逆に、胡散臭いヒトたちが堅気スーツを着ても負のオーラを消すコトはできません。

気鋭のミステリー作家の貫井徳郎さんが普段のシリアスな筆致とは180度異なるコメディタッチで描いた小説「悪党たちは千里を走る」の引用ですが、「チンピラはどんな格好をしてもチンピラにしか見えないから不思議だ」そのものであります。

すなわち、「品格」という言葉とは無縁なファッションに身を包んでいるから胡散臭い負のオーラを放つのではない。胡散臭さが宿るのは身なりではなく人相そのものにあるのだと判ります。

では、オトコの人相の良し悪しが顔のパーツのどこに現れるのでしょうか。少し考えてみたところ、それは「目」であるというコトに気づきます。やましい心根は目に現れる。「目が笑っていない」「目は口ほどに物を言う」の格言どおり、そのヒトの人となりは「目」に現れるのです。

 

胡散臭いオトコたちがもたらす厄災を回避するために

「類は友を呼ぶ」の格言どおり、まっとうに正しく生きようと心がけて社会人生活を続けていれば、そう大きなトラブルに見舞われるコトはありません。道を外れそうになった時に、かけがえのない友人が助けてくれるからです。

しかしながら、生き馬の目を抜く社会人生活の荒波の中、出会ってはいけないオトコたちとの邂逅を避けては通れない場合もあります。皮肉な話ですが、仕事の女神さまというものは分け隔てなくスリルとサスペンスを与えてくれるワケです。

人生経験を積み重ねていく中、性善説をもとに胡散臭いヒトたちの本質を見誤り、ときに痛い目に遭わされ、そのヒトたちが起こしたトラブルに巻き込まれた経験から、オトコの本質を見極めるための眼力を鍛えられたと思います。

これは身近なオトコたちに限りません。芸能界の第一線で活躍するタレントや芸人たちの中にも、名状しがたい胡散臭さを匂わせるオトコたちがいます。たとえ映像越しであっても、時おり見せる目つきと、その奥底にある不気味な光でピンときたりする。

ここまでさんざん偉そうなコトを綴ってしまいましたが、そんな僕にも手痛い失敗がありました。つい最近の話ですが、その本性を看過するコトができず、警戒すべき存在への油断と叱責されても仕方がないミスがありました。

業務上やむを得ず関わりを持たざるを得ない中、胡散臭さの本質を見抜くコトができずに甘い評価をしてしまっていたコトは痛恨の極みでありました。

しかしながら、これまでの僕を認めてくれた友人が僕を救ってくれました。僕のミスを気づかせてくれ、曇っていたとまで卑下するつもりはありませんが甘さを払拭しきれなかった僕の眼を改めてくれたのは、かけがえのない僕の仲間たちでした。

血族とのつながりは必ずしも永遠ではなく(両親は先に逝き、兄弟姉妹は別な家庭を築いて所帯を別にしていく)、恋人は伴侶とならない限り、いつかは別れて去っていく。

しかしながら友だちだけは違う。最後まで自分のために力になってくれる。見返りなど一切求めずに。だからこそ、友だちだけは終生、大切にせよ。

以上、今は亡き父親が若造だった頃の僕に残してくれた最高の人生訓です。何かと口うるさい亡父でしたが、確かに言っているコトは正しい。心底、納得できたからこそ数十年後の今でもハッキリ覚えているのでしょう。

そして、父親の遺言を愚直に守ってきたからこそ、こうして現在に至るまで(紆余曲折は色々ありましたが)、道を外さず半独立型社会福祉士として生計を立てられているのだと思っています。

胡散臭いオトコたちがもたらす厄災を回避するために最も重要なのは、誰かから後ろ指を指されるような後ろめたい振る舞いをしないと誓い、まっとうな生き方を貫くことによってのみ得られる、打算抜きでお互いに尊重しあえるような「良き友人」を持つコトであります。

今以上にアタマが足りなかった若造だった頃の僕のように自分だけの眼力でどうにかなると思っているのなら、その考えは早急に改めるべきであります。

なぜなら、それは真の危機を未だ知らない未熟者の思い上がりに他ならないからであります。